今回ご紹介するのは、
村上春樹 著 『一人称単数』 です。
本作品は全8作からなる短編小説集であり、各個人の人生の中で説明がつかず筋も通らない、
でも心かき乱す忘れがたい思い出の回想を、それぞれの章の主人公の視点から描いたストーリー
となっています。
著者はご存じ村上春樹先生です。
本作品も村上先生らしい親しみやすい文章と、巧みな隠喩を用いた
読みやすさ満点の一作となっています。
村上先生の作品をもっと知りたいという方はこちらをご覧ください。
『一人称単数』のあらすじ
本作は全8作から成る短編小説集なので、各章ごとにあらすじを紹介したいと思います。
なお、この作品は文芸春秋において2018年7月号から2020年2月号まで村上春樹先生の作品として刊行されていますので、気になる人はチェックしてみてください。
石のまくらに
「たち切るも たち切られるも 石のまくら うなじつければ ほら、塵となる 」 大学2年生のころに一晩だけの関係を持った女性。僕は彼女の名前も顔も思い出せない、それでも印象に残っていることが一つ。彼女は短歌を作っていた。読み上げるとあの夜目にした彼女の身体をありありと再現できる、それでいて強い「死」のイメージを持つ不思議な魅力の歌を。 彼女が今も短歌を作っているのか、そもそも生きているのかもわからない。それでも僕は、彼女がまだ世界のどこかに残っていることを願っている ー。
クリーム
「僕らの人生には時としてそういうことが持ち上がる。説明もつかないし筋も通らない、しかし心だけは深くかき乱されるような出来事が 。」 浪人生の僕はピアノ教室の同級生からリサイタルの招待状を受け取る。当日その会場に赴くも、なぜか肝心のリサイタル会場にたどり着けない。 途方に暮れた僕が公園のベンチに座っていると、目の前に一人の老人がいた。彼は「中心がいくつもあり、外周を持たない円」を思い浮かべられるかと僕に問いかける。 困惑する僕に対し、彼は人生において一番大切な、「人生のクリーム 」について語り始め ー。
チャーリー·パーカー·プレイズ·ボサノヴァ
「死はいつだって唐突なものだ。しかし同時にひどく緩慢なものでもある。それは瞬く間の出来事でありながら、同時にどこまでも長く引き伸ばすこともできる。」 学生の頃、僕は一つの創作記事を書いた。内容はスーパースターのチャーリー・パーカーが新作アルバムを発表したというもの。当然この記事は創作だ。記事中の「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」なんてアルバムは存在していない。それから数年たったある日。僕はニューヨークの街角のレコード店で学生時代の自分の作った架空のアルバムと同じタイトルのレコードを発見するも、買わずに店を出てしまった。後日、僕の夢にチャーリー・パーカーが現れて ー。
ウィズ·ザ·ビートルズ With the Beatles
「音楽はそこにあった。しかし本当にそこにあったのは、音楽を包含しながら音楽を超えた、もっと大きな何かだった。」 高校の新学期を迎えたある日、僕は学校の廊下でビートルズのLPレコードを抱えた一人の女子生徒とすれ違う。それほど高くない背、真っ黒な長い黒髪、細い脚、素敵な匂い ー。名前も知らないその少女に、僕はひどく心惹かれた。 それからというもの、同じクラスの女子と付き合ったときも、その彼女のお兄さんと彼女の家で話したときも、大人になって女性に惹かれて結婚したときも、ぼくの心の中には常にあの高校時代の少女とすれ違った時の思い出が、ビートルズの音楽と共に「情景の水準器」として残り続ける ー。
「ヤクルト·スワローズ詩集」
「時間はあくまで同じ時間だ。できるだけ素敵な記憶をあとに残すこと ー それが何より重要になる。」僕はヤクルト・スワローズのファンだ。特別熱心というわけではないが、まずまず忠実なファンだと思う。僕が野球と関わりだすのは小学生時代、阪神タイガースを甲子園球場に見に行ったことから始まる。9歳の時、父親と共にセントルイス・カージナルズと全日本チームとの親善試合を見に行ったとき。18歳で地元を離れ、神宮球場でサンケイ・アトムズ(現ヤクルト・スワローズ)を応援したとき。1978年スワローズが初優勝したとき ー。人生における野球という素敵な「エッセンス」を、筆者・村上春樹の回想と共にたどる。
謝肉祭(Carnaval)
「それらは僕のささやかな人生の中で起こった、一対のささやかな出来事に過ぎない。しかしそれらの記憶はあるとき、遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。」 50歳を過ぎたある日、とあるコンサートで自分より10歳程年下の「彼女」と出会った。 顔のどこかのパーツがおかしいわけではない。しかしそれらが一つにまとまると総合的な醜さが出来上がってしまう女性。そんな彼女と、コンサートの後に立ち寄った店で「この世に一つだけ残したい音楽」について聞かれ、僕はシューマンの『謝肉祭』を挙げる。意気投合した彼女とちょっとした関係を作り、彼女に魅力を感じていく僕だったが、ある日テレビで彼女を見かけて ー。
品川猿の告白
「愛というのは、我々がこうして生き続けていくために欠かすことのできない燃料であります。その愛はいつか終わるかもしれません。しかしたとえ愛は消えても、愛がかなわなくても、自分が誰かを愛した、誰かに恋したという記憶をそのまま抱き続けることはできます。」 あてもなくぶらぶら一人旅をしていたぼくは群馬県M*市のひなびた温泉宿に留まることになった。建物に似合わず上質な温泉を堪能しているぼくのもとへ一匹の猿が現れ、「お背中を流しましょう」と言ってくる。始めは驚いたぼくも次第に猿と打ち解け、次第に親しく会話ができるようになった。すると猿は、かつて品川区に住んでいたという猿自身の身の上話に進んでいく ー。
一人称単数
「私のこれまでの人生には、ーたいていの人の人生がそうであるようにー いくつかの大事な分岐点があった。右と左、どちらにでも行くことが出来た。そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。」 私にはおかしな癖がある。普段めったに着ないスーツを、特に必要もないのにあるとき袖に通す。ネクタイまで占めてしまう。そこに深い理由はない。 その日も、まだ二回しか着ていないスーツを着た。普段の行きつけではない、少し遠くのバーへ出かけた。カウンターでウォッカ・ギムレットを飲みながら読書をしている僕。そこへ見覚えのない小柄な女性が話しかけてきて ー。
『一人称単数』の面白い点
この作品は、どの話も明確なハッピーエンドやバッドエンドは設定されていません。ブックカバーに書かれているように、
「説明もつかないし筋も通らない、しかし心だけは深くかき乱される出来事」
は、うれしいや悲しいなどの単純な言葉で表されるものではないようです。
しかし、言葉で表現しづらいテーマであるため、理解して読み進めるのが難しそうに感じます。
そこは村上春樹先生の作品らしく、とても分かりやすい隠喩表現を用いています。そのため文章が苦手な人でも読みやすくなっています。
主人公が感じている衝撃、驚き、困惑に似た説明のつかない強い感情。これらが実に巧みな例えを用いて表されています。
「人物の心情を読み取る」という作業は、学校の現代文の授業でも大変重要な過程です。が、苦手としている人も多いのではないでしょうか。
そんな人は是非村上春樹作品を読んで、練習してみてほしいと思います。
おわりに
『一人称単数』は村上春樹先生の前作『騎士団長殺し』から3年ぶりの刊行となりました。
他の作品に比べると知名度はそれほど高くありません。しかし『一人称単数』は十分な趣と奥深さを備えた力作であり、ページ数は少ないものの読みごたえはしっかりあります。
ぜひ手に取ってみてください。過去の記事もよろしくお願いします。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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